国境石です
「国境石」と「一里塚」



       「国境石(こっきょういし)」

我が家近くの金比羅山(堂ケ峰)周辺は、古の「筑前國」と「豊前國」の国境(くにざかい)に当たります。
国境を流れる「境川(さかいがわ)」もあり、現在も戸畑区と小倉北区の区境になっています。
金比羅池中の国境石の説明から好奇心を掻き立てられ、他にもあれば現物を見たいと思い立ち、
国境石の探査を始めました。今年の9月中旬頃です。それから約1ヵ月余り、資料や現地踏査で
金比羅周辺の国境石で現存するもの全て(11基)の所在を突き止めることが出来ました。
その過程で、昭和の初期に新たに作られた国界石(2基)も見つけることができました。
田代地区の山の中にあるであろう3基については未確認ですが、これらの国境石も機会があれば
探してみようと思っています。
こうした石柱が永い年月を越えて今も在ることに不思議な生命力さえ感じられます。
今後も永く在り続けていって欲しいですね。(平成20年10月)

参考資料は、
・「北九州市文化財調査委員会調査報告 1 豊前・筑前の国境石 1966(昭和41年) 北九州市教育委員会」
・現地の「説明文(北九州市教育委員会)」
・いのちの旅博物館の「国境石の分布」
を利用しましたが、このどれにも実状と違う記述やおかしい画像がありました。
それらは、このページの最後に、判る範囲で対比・記述をしています。

北九州地区の国境石
        金比羅周辺の国境石
金比羅周辺の国境石の現況(平成20年10月) 北九州市教育委員会説明書より

=現存  =移動  =移動先
「江戸時代、筑前福岡黒田藩と豊前小倉小笠原藩により多数の
国境石が設置された由。特に両藩の国境紛争多発地域だった戸
畑区中原、八幡東区高見、八幡東区田代に18基の境石が建て
られ、現在も滅失せずに14基(控石1基含む)が残っていま
す。が、動かされたものも多く、ほぼ原位置に現存しているの
は6基のみ。」の由。
  (北九州市教育委員会説明より)
1 「江口の国境石」

「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

元は河口の筑前中原側に西を向いて建っていた。
花崗せん緑岩の石碑。福岡藩が天保12年(1841)に建てた。
銘文の筆者は福岡藩の書家 二川方作(相近の養子)の由。
北九州市立「いのちのたび博物館」にて保管展示されています。

(所在:八幡東区東田2丁目4番「いのちの旅博物館内展示」)
(寸法:175cm×25cm×25cm)
1 「江口の国境石」のレプリカ

上記の国境石のレプリカです
境川の当時の江口にあります。当時の川は境石より
東側の道路と民家付近を流れていた由。
ただ、西向きに建てないといけないのが東向きに建ってます。
改築したときに間違えたのと思います。

(所在:小倉北区中井浜7番地河川公園内)

2 「江口の国境石の控石」の昭和41年当時の写真と拓本(資料より転記)

「遠賀郡中原村抱」
「従此控石江ノ口壹番御境石 東外面正半迄七十貮間寅 三分當但壹間六尺五寸縄」
「寛政九丁巳年(1792)八月建之」

昭和41年当時の写真・拓本は残っていますが現物は不明。
間違いなく、距離は七十貮間となっています。

”現存する唯一の控石”
だったようです。

と言うことは、次の控石はその後発見されたことになります。

ちなみに、方位は、
北=子(ね)、丑、寅、東=卯(う)、辰、巳、南=午(うま)、
未、申、西=(とり)、戌、亥となっています。

(所在:?? どこかで保存されていることを願っています。
(寸法:88cm×27cm×30cm)
? 「江口の国境石の控石」

「遠賀郡中原村抱」
「従此控石江ノ口壹番御境石 東外面正半迄十五間卯ノ 六分當但壹間六尺五寸縄」
「寛政九丁巳年(1792)八月建之」

国境石ではなく国境石が何らかの理由で位置や存在が不明になった時に備えての控え標識です。
この控え石から江口の国境石までの距離が書かれてます。
福岡藩が寛政9年(1792)に建てたようです。
昭和41年以降に発見された?

(所在:戸畑区中原東2丁目2番36号「中原市民センター」敷地内)
(寸法:88cm×27cm×30cm)
3 「中原の国境石」

「従是東豊前国小倉(領)(これよりひがしぶぜんのくにこくらりょう)」

小笠原藩と黒田藩の国境紛争における箱崎協定によって元禄十五年頃に
両藩の国境にあたる境川(現在の戸畑区中原)の川中に建てられた。
その後、天保十一年の大洪水で洗い倒され、同十三年に再建されるが、
昭和三十二年の境川区画整理事業の施行に際し紛失の恐れがあったため、
この地に移した由。筆者は小笠原藩の祐筆西田直養ではないかとのこと。
行方不明になって発見された時は、石垣の石にされてたそうです。
石垣の石にされる時、柱頭が平らに削られたようです。

(所在:戸畑区新池1丁目1番「旧戸畑区役所」敷地内)
(寸法:170cm×23cm×25cm)
4 「金比羅池の国境石」

「文化十四年丁丑三月 再建之」(ぶんか14年ひのとうし3月 これをさいけんす)
「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」
「遠賀郡中原村抱」(おんがぐんなかばるむらかかえ)

玄武岩の石碑。福岡藩が文化14年(1817)に建てた。
銘文の筆者は福岡藩の祐筆 二川相近(ふたがわすけちか、1767〜1836)の由。
金比羅池はもと八王子池といわれ、大正7年(1918)、灌漑用の溜池として造られた。
            (北九州市教育委員会)

(所在:小倉北区井堀5丁目1番中央公園「金比羅池」内)
(寸法:150cm×37cm×30cm)
5(A) 「金比羅の国境石(八王寺 No1)」

「天保十五年甲辰三月 再建之」(てんぽ15年さるたつ3月 これをさいけんす)
「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」
「遠賀郡中原村抱」(おんがぐんなかばるむらかかえ)

福岡藩が天保15年(1844)に建て替えたもので、
元の場所は市立総合体育館横あたり(八幡東区高見5丁目)。
銘文の筆者は福岡藩の祐筆 二川相近(ふたがわすけちか、1767〜1836)の
養子二川方作(ふたがわほうさく)の由。
この国境石は永く八幡西区陣原に保存されていたものを、
平成元年5月に八幡西区生涯学習センター(当時八幡西区市民会館)前に移設された。
            (北九州市教育委員会)

(所在:八幡西区相生町19番「八幡西生涯学習センター」玄関前)
(寸法:150cm×37cm×30cm)
6 「八王寺国境石(八王寺 No2)」

「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

八幡東区の天疫神社のすぐ裏のグループホーム「牧水の丘」の敷地内の庭の中に
ありました。宮の町の方への抜け道を探していて迷い込んだ結果、発見しました。
ご挨拶をして撮影させてもらいました。
昭和41年の調査以後に再度敷地内で動かされたようです。
当時の写真では壁に塗り込まれているような状態でしたが、
現在は単独柱になってます。
元は現在の福祉公園内にあったのじゃないかと思います。(未確認)

(所在:八幡東区東鉄町5番20号「牧水の丘」敷地内)
(寸法:83cm×18cm×17.5cm)
7 「八王寺国境石(八王寺 No3)」

「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

ご挨拶をして撮影させてもらいました。
撮影のお手伝いもしてくださいました。
一番年代を感じた国境石でした。苔にさえ風格を感じます。
以前は、八幡東区高見5丁目2番13号地内にあった由。(未確認)

(所在:八幡東区東鉄町4番26号 芳賀邸敷地内)
(寸法:85cm×18cm×18cm)
8 「阿弥陀院の国境石(八王寺 No4)」

「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

真言宗阿弥陀院の下にあります。
もとは道をはさんだ向かい側の阿弥陀院よりにあったが、
昭和28年(1953)の崖崩れ?のため現在地に移設された由。
            (北九州市教育委員会)

(所在:八幡東区高見3丁目4番17号角、阿弥陀院の下)
(寸法:87cm×18cm×18cm)
9 「国境石(行方不明)」

記録には残っているそうですが、現物は行方不明になっているそうです。
あったとすれば、八幡東区高見1丁目の山際あたりではなかったかと思います。(推測)

後述の12番の八幡図書館前の筑前国境石がこれではないかと思っています。
(市の資料でも同じようなことが)
10 「三条の国境石」

「従是西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

天保5年(1834)に建て替えられた。
福岡藩最大規模の国境石
刻銘の技法が従来の薬研(やけん)彫りに代え新しい竹底(たけぞこ)彫りを採用。
銘文の筆者は福岡藩の祐筆 二川相近(ふたがわすけちか)の由。
            (北九州市教育委員会)
国境石の中で唯一北九州市「指定史跡(境界石)」になっています。
(昭和五十年三月二十二日指定)

(所在:八幡東区高見2丁目2番、市長公舎隣)
(寸法:329cm×51cm×43cm)
  
11(B) 「大蔵の豊前国境石」

「(従是)東豊前国小(倉領)(これよりひがしぶぜんのくにこくらりょう)」

八幡東区三条にあったと言われている由。
旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを
昭和三十九年(1964)に図書館に移設。
銘文の筆者は木部市左衛門といわれている由。
            (北九州市教育委員会)
上部下部が欠けています。

(所在:八幡東区尾倉2丁目6番2号「八幡図書館」前)
(寸法:78cm×20cm×20cm)
12(C) 「大蔵の筑前国境石」

「(従是)西筑前国(これよりにしちくぜんのくに)」

元の所在地は不明の由。
旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを
昭和三十九年(1964)に図書館に移設。
銘文の筆者は福岡藩の祐筆 二川相近(ふたがわすけちか)の由。
            (北九州市教育委員会)
上部が欠けて、痛みが進んでいます。
元々の所在は不明の由。なので、これが前述の不明の9番の国境石
ではないかと思っています。(推測)


(所在:八幡東区尾倉2丁目6番2号「八幡図書館」前)
(寸法:50cm×18cm×18cm)
13 所在不明
大蔵村往還に記載あるのみ

(所在:不明)

中畑の国境石1

「昭和十五年一月建之」
「旧 豊前・筑前 國界」
「中畑区劃整理組合」

天疫神社から200mほど奥で、東を向いて建っています。
昭和15年に中畑区画整理組合が2基を設置した由。
国境は三条でUターンしここから槻田川を経由し田代に抜けていたようです。
あとのもう1基の所在は不明です。( ↓ 下の石柱です、2週間後見つけました。)

(所在:八幡東区宮の町1丁目3番10号角、交差点)
(寸法:69cm×18.5cm×18.5cm)
中畑の国境石2

「昭和十五年一月建之」
「旧 豊前・筑前 國界」
「中畑区劃整理組合」

どこか判らなかった1基です。
上の石柱より更に200mほど南の階段脇にありました。
東を向いて建っています。

(所在:八幡東区中尾2丁目8番11号角、石の階段横)
(寸法:73cm×18.5cm×18.5cm)
14 「田代壁ケ谷の国境石」

(所在:田代 ???)
15「田代荒谷口の国境石」

(所在:田代 河内病院周辺)
16「田代荒谷越西尾筋の国境石」

(所在:田代 河内病院周辺)
17 所在不明
境筋絵図に収載
(所在:田代 ???)
18「田代境ケ谷の国境石」

(所在:田代 河内病院周辺)
         
これ以降は、付録です。     
(参考)種々の境石

下記の3基の境石が「いのちのたび博物館」駐車場に展示されています。
手前より、
 ・長野村境石
 ・追分道標
 ・漁場境石

(所在:八幡東区東田2丁目4番「いのちのたび博物館」駐車場)
「 長野村 境石」

「従是東上長野村地敷」

長野村は、江戸時代幕府に一村で報告されているが、
小倉藩内では上長野村と下長野村に分かれていた。
明治20年(1887)に合併して再び長野村となる。この
石柱は横代村との境を示したものである。
  (現地説明書)

(所在:八幡東区東田2丁目4番「いのちのたび博物館」駐車場)
(寸法:117cm×23cm×23cm)
「 追分道標」

「従是西筑前冷水越道」
「従是南筑前八丁越道」

冷水越は長野街道、八丁越は秋月街道の難所峠道で、
この石柱は両街道への追分道標である。元の所在地は
確定できないが、現在の嘉穂郡嘉穂町上才田辺りにあ
ったものと思われる。
  (現地説明書)

(所在:八幡東区東田2丁目4番「いのちのたび博物館」駐車場)
(寸法:111cm×18.5cm×19cm)
「 漁場 境石」

「従是西柏原浦抱」
「従是東岩屋浦抱」

若松区の岩屋浦と遠賀郡芦屋町の柏原浦との境界を
示したもので、夏井ケ浜辺に建っていたものという。
両浦漁民の漁場を定めたものと思われる。
  (現地説明書)

(所在:八幡東区東田2丁目4番「いのちのたび博物館」駐車場)
(寸法:82cm×26cm×25cm)
「木屋瀬の追分道標」のレプリカ

 「従是(これより) 右赤間道 左飯塚道、元文(げんぶん)三年(1738)建之」
 右手遠賀川の土手を越え川原に下りると、一艘の渡し船が待っている。当時水深2m、
川幅91mの遠賀川を渡り、中ノ島を歩き、再び12mの犬鳴川を渡って植木の宿に上が
る。新延(にのぶ)から赤間に出る、これが赤間道(内宿通り)で、福岡への唐津街道
に通じる道である。
 左の道は勿論、九州一の幹線「長崎街道」で、飯塚の宿まで4里30丁。長崎奉行や、
肥前・肥後・筑後・薩摩 数十の大名の行列が上り下りし、多くの旅人が、にぎやかに
往き交った所。従って、木屋瀬の宿は追分(おいわけ)の宿であり、これは「追分の道
標」である。実物は、現在郷土資料館の敷地内に移されている。
 (宿場木屋瀬まちづくりの会説明文より)

(所在:八幡西区木屋瀬宿西構口(かまえぐち)十字路)

	これ以外に筑前国の国境石はいくつもあります。詳細は、下記アドレスを。
	http://www.geocities.jp/chikuzensakaiisi/page138.html


下記表は、 <北九州市文化財調査委員会調査報告 1>     豊前・筑前の国境石      1966     北九州市教育委員会 より抜粋。(平成20年10月11日中央図書館にて) 緑背景→現物確認:平成20年(2008年)。 (赤字)→現物と相違点(確認している部分のみ)。 薄青背景→ほぼ原地(もともとの位置)に現存:平成20年(2008年)現在。
 北九州市内国境石一覧表  昭和41年3月現在
番号 銘  文 寸    法(cm) 型    態 原    地 現  在  地 銘文筆者 石    質
従是西筑前国 175×25×25 切石加工 江口 江口
(八幡東区の「いのちの旅博物館の屋内展示」)
二川方作 花崗閃緑岩
(1) 従是西筑前国   切石加工 1の複製(レプリカ)です。
(境川河口小倉側)
   
従此控石江ノ口壹番御境石
東外面正半迄七十貮間寅三分
當但壹間六尺五寸縄
寛政九丁巳年八月建之
遠賀郡中原村抱
88×27×30 切石加工 中原
元九電診療所構内
中原八幡宮境内(??)
↑ 神社境内から市民センターに移転した由。
    (中原八幡宮社務所談)
    が、市民センターにあるのは全くの別物。
二川相近 花崗閃緑岩
遠賀郡中原村抱
従此控石江ノ口壹番御境石
東外面正半迄十五間卯ノ
六分ニ當但壹間六尺五寸縄
寛政九丁巳年八月建之
遠賀郡中原村抱
88×27×30 切石加工 ??
新たに発見された?
中原市民センター内
↑ 民家の床下から発見、処分に困って市民センターに持ち込まれた由。
    (市民センター館長談)
?? ??
従是東豊前国小倉
(従是東豊前国小倉(領))
170×23×25 切石加工 境川筋県道橋下 旧戸畑市役所構内(旧戸畑区役所構内) 木部市左ェ門
(西田直養?)
花崗閃緑岩
従是西筑前国
遠賀郡中原村抱
文化十四年丁丑三月建之
(文化十四年丁丑三月 再建之)
150×37×30 自然運石 金比羅池中 金比羅池中 二川相近 玄武岩
従是西筑前国
遠賀郡中原村抱
天保十五年甲辰三月 再建之
正面 150×37×30
左面 150×30×25
自然運石 八王寺町(第一) 陣原(八幡西区相生町)
末松寛造氏邸(八幡西区生涯学習センター玄関前)
平成元年5月に陣原より当地に移転
二川方作 玄武岩
従是西筑前国 83×18×17.5 切石加工 八王寺町(第二) 荒生田(八幡東区東鉄町5番20号)
芳賀善広氏邸(グループホーム「牧水の丘」の庭内)
二川相近 花崗閃緑岩
従是西筑前国 85×18×18 切石加工 八王寺町(第三) 荒生田 (八幡東区東鉄町4番26号)
芳賀茂之氏邸
二川相近 花崗閃緑岩
従是西筑前国 87×18×18 切石加工 八王寺町(第四) 同左(八幡東区高見3丁目阿弥陀院下)
(上高見町二)(八幡東区高見3丁目)
二川相近 花崗閃緑岩
文久元年境筋絵図収載による(所在不明) 12に該当するものか 八幡図書館前の筑前国境石ではないか
10 従是西筑前国 329×51×43 切石加工 大蔵三条
八幡製鉄課長社宅内
同左
(八幡東区高見3条橋近くの国境石公園内)
二川相近 花崗閃緑岩
11 東豊前国
((従是)東豊前国小(倉領))
78×20×20 切石加工 大蔵
(八幡東区三条)
八幡図書館前庭
(旧八幡市役所の内庭→昭和三十九年(1964)に八幡東区図書館前庭)
木部市左ェ門
(木部市左衛門)
粗粒砂岩(折尾砂岩)
12 西筑前国
((従是)西筑前国)
50×18×18 切石加工 大蔵
(??)
八幡図書館前庭
(旧八幡市役所の内庭→昭和三十九年(1964)に八幡東区図書館前庭)
二川相近 粗粒砂岩(折尾砂岩)
13 (所在不明)     大蔵村往還      
14 (従是西筑前国) 大凡150×21 切石加工 壁ケ谷 原地下流に埋没 ?二川相近 ?花崗岩
15 従是西筑前国 110×(45〜75)×26 自然根石 荒谷口 荒谷口 二川相近 石英班岩
16 従是西筑前国 80×(43〜50)×12 自然運石 荒谷越西尾筋 荒谷越西尾筋 二川相近 斜長●(王偏に分)岩
17 文久元年境筋絵図収載による(所在不明)
18 従是西筑前国 150×190×80 自然根石 境ケ谷 境ケ谷 二川相近 石英班岩
(追加)他の資料の未訂正や疑問点や間違いや不明点について
・2 江口控石
        :いのちのたび博物館の資料では、これ以外に2基あり所在不明となっている。(不明点)
・4 金比羅池国境石
        :いのちのたび博物館の資料では、現存する控石表示になっている。(間違い)
・5 八王寺(No1)国境石
        :いのちのたび博物館の資料では、陣原にあるようになっている。(未訂正)
        :三条の国境石の説明板では八幡市民センターにあるようになっている。(未訂正)
        :三条の国境石の説明板では福祉公園内表記。福祉公園内は八王寺(第2)。(間違い?)

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