長崎街道と一里塚です
「長崎街道と一里塚」



「長崎街道・門司往還と一里塚(いちりづか)」
「長崎街道・門司往還」

 「長崎街道」は江戸時代初期に整備され、慶長16年(1611)には黒崎、原田間の筑前六宿が完成し、
小倉から長崎の間の全長57里(約228キロ)25宿が定着し、江戸を発する五街道に次ぐ主要な道
路となりました。(北九州市説明文より)
ちなみに、全宿場は、
小倉、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田(以上筑前六宿)、田代、轟木、中原、神崎、境原、佐賀、
牛津、小田、(北方、塚崎、)又は(鳴瀬、塩田、)嬉野、彼杵、松原、大村、諫早、矢上、日見、長崎。

北九州市内の全路程を歩いてみました。これは、その時の記録写真です。
当時の街道はほとんど現在も残っています。当時の面影を残している場所も少なくありません。
道すがら地蔵堂などがほんと多いので、お賽銭がいっぱい必要です。(^ ^;;)
 「門司往還」は、小倉から門司大里までの短い街道です。
「北九州市内の一里塚と長崎街道」

一里塚は街道の両側に一里(約4km)の目印として小高く土を盛ったところです。
長崎街道にも一里塚が設置されており、北九州市内には、門司大里・長浜・荒生田
・前田・幸神・小嶺・茶屋の原にあり ました。
九州の一里塚は、門司大里が起点となっています。

ちなみに、
一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺、六尺は曲尺で1.8mです。
一里(3,888m)、一町(108m)、一間(1.8m)、一尺(0.3m)。
「門司往還、豊前大里宿」

 一里塚の起点となっている宿場町大里の図です。5町52間(約646米)ほどの町でした。
大里本町2丁目が江戸時代の大里の中心地だったようで、番所やら本陣が建ち並んでいたようです。
旧街道は、現在の199号線から1本東に入った道で現在も手向山の所まで当時のまま残っている
ようです。昔の大里駅も仏願寺(大里本町2丁目7番)の南側通りの突き当たりくらい。
町割りも当時のままが残っているみたいですね。
「大里まちでさーよ。宿じゃといやるの。茶筅竹ほどないまちを。
               茶筅竹ほどまちゃなれど。諸国大名は皆おつきよ。」(大里地方 杵搗唄)

(所在:門司区大里本町2丁目11番、国道199号線側)
「大里」の海岸から対岸の「下関」を望む。

旅人は船で対岸の下関と大里の間を往き来しました。
遠くは菅原の道真、足利尊氏、近くは伊能忠敬、天璋院(篤姫)、坂本龍馬、小松帯刀、
高杉晋作、西郷隆盛、シーボルト等など。像も渡った由。

史跡として、豊前大里宿跡、一里塚標石跡、人馬継所跡、御高札・南部屋跡、重松彦之丞屋敷跡、
御在番役宅・浜郡屋跡、御番所跡、本陣(お茶屋)跡、大里村 庄屋 石原宗祐屋敷跡、
判行寺石碑跡、永野九助屋敷跡、等の碑が宿場内に建てられています。
旧国鉄の「大里駅」も当初は宿場東側にあったようです。
昔のままは、仏願寺、八坂神社、西生寺(判行寺)の神社仏閣のみ?

(所在:北九州市門司区大里本町3丁目、2丁目)
「大里の一里塚」

「大里宿 史跡 一里塚標石跡」・・九州諸街道全ての起点の一里塚石標の跡です。
大里宿は江戸への玄関口であり、長崎街道の始終着駅であった。藩政期街道要路には里程の目安
として一里塚標石を設けていた。
(現地 碑文)



(所在:北九州市門司区大里本町3丁目2番)
「企救の松原」

 小倉から門司の大里にかけての海岸は、「企救の長浜」とか「企救の高浜」と呼ばれていました。
この長い海岸線には白砂と美しい根上り松が群生して、遠く万葉の昔から太宰府に往来する貴人や
防人(さきもり)たちの心を慰めた由。
  豊国の企救の長浜ゆきくらし 日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
  豊国の企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは小夜ふけにけり

昔はもっともっと綺麗だったんでしょうね。

(所在:小倉北区高浜1丁目4番、国道199号線沿)
「閻魔堂(えんまどう)」

 閻魔堂は引接庵(いんじょうあん)と称し、円応寺の末寺で、長浜の人が世話をしている。
日頃、堂は閉じているが、毎年祭日である1月16日と8月16日には円応寺住職が読経して祭り
が始まる。祭日には、堂の左側に江戸末期の絵師村田応成作といわれる「地獄・極楽の絵図」
が開帳されます。
8月16日の夕方には盆踊りもあります。
(小倉北区役所 説明文より)

(所在:北九州市小倉北区長浜町10番)
「岩松助左衛門翁生誕の家跡碑」

 白州灯台に命を捧げた岩松助左衛門の生家の跡です。
岩松助左衛門は、文化元年(1804)小倉城外の長浜浦に生まれました。岩松家は代々庄屋を
勤め、助左衛門も十八才で庄屋となり、文久元年(1861)海上御用掛難破船支配役を命じ
られました。そして白州灯台の建設に全てをかけられました。
(現地 北九州市教育委員会 案内文より)

(所在:小倉北区長浜町11番4)
「貴船神社」

 小倉から門司の大里にかけての海岸は、「企救の長浜」とか「企救の高浜」と呼ばれていました。
この長い海岸線には白砂と美しい根上り松が群生して、遠く万葉の昔から太宰府に往来する貴人や
防人(さきもり)たちの心を慰めたものでした。ここを詠んだ歌が万葉集に2首でています。
その万葉碑がこの神社にあります。

  豊国の企救の長浜ゆきくらし 日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
  豊国の企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは小夜ふけにけり

(所在:北九州市小倉北区長浜町2番角)
「門司口門 跡」案内 門司への出口です。

 京町の通りを東に突き当り、左折して海岸の石垣まで来て反転して門をくぐる。門を出て外堀の
砂津川にかかる門司口橋は、今もそのままの位置で長浜に向かう。
 この道は江戸時代の参勤交替にも使われた。九州諸藩の大名は、常磐橋周辺の本陣で一泊し、
明朝、京町筋を通って大里へ向かった。
 小倉では最も重要な道なので、昼夜常に開門しており、番所には数人が交替で勤めていた。
(現地 小倉北区役所 案内文より)

(所在:小倉北区長浜町2番紫川門司口橋袂)
「岩松助左衛門の墓」

 玄海灘の難所の白州に灯台を建設すべく私財を投げ打って東奔西走されました。
その志は明治新政府が引き継ぎ明治6年宿願の白州灯台は点灯されました。が、
助左衛門はその完成を見ることなく、前年の4月に病没しました。
尚、小倉城内に岩松助左衛門を顕彰して白州灯台のレプリカが建てられています。
北九州市立図書館の道路向かい辺りに見えます。

この近くの生往寺に槍で有名な宝蔵院流高田派の始祖・高田又兵衛、
方円流の始祖・直方円斎(あたいほうえんさい)の墓もあります。
(所在:北九州市小倉北区京町4丁目4番、西顕寺門前)
「参勤交代往還路」案内

 この先に見える通りが、門司往還です。
門司口から長浜の松並木まで当時の街道が残っています。
が、残念ながら、高浜・赤坂辺りは殆ど残っていません。
松原辺りから大里までは残っています


(所在:小倉北区京町3丁目コレット裏玄関前)
「常磐橋 東詰」

 「門司往還」の起点です。

 「門司往還」は、小倉から門司大里までの短い街道です。
小倉城

 門司往還

 長崎街道

「常磐橋」・・・長崎街道の起点です

 常磐橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(ひがしくるわ)(主として町人が生活してい
た地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋
と呼ばれていました。この橋の西勢溜(せだまり)(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の
周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んで賑わっていました。
 参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。中でも有名なのがドイ
ツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。(下図)
 このように海と陸の玄関口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋と
なっていました。(以上 北九州市の説明文より抜粋)

(所在:小倉北区室町2丁目1番と3番の間)
シーボルトの「常磐橋」銅版画

(所在:常磐橋の西勢溜)
小倉県庁跡碑とその旧県庁の建物(奥に見える建物)

 廃藩置県に先立つ明治4年4月、「西海道鎮台」が小倉に設置された後、同年11月から、
福岡県に合併される明治9年4月までの4年半の間小倉県庁があった。
 範囲は、現在の門司・小倉から京築、中津市、宇佐市くらいまでといわれており、旧豊津
県・千束県・中津県・明治2年以来日田県が直轄していた企救郡を統合してできた。
 明治4年11月14日、企救郡第一大区小倉六区室町(現在のこの地)に県庁が、千束と四
日市に支庁が置かれ、同年12月には、伊東武重(旧肥後藩士)が、惨事に、堀尾重興(旧
南部藩士)が、副惨事に任命された。
 明治9年4月18日に福岡県に合併された後、裁判所、警察署等を経て、現在この地にある
岡田医院が、小倉県庁の建物の一部として、今も残っている。小倉北区役所
(現地説明文より)
(所在:小倉北区室町2丁目2番)
長崎街道と新式郵便制度

 長崎街道は、江戸時代において小倉・長崎間で25の宿場を結び、国内で唯一、海外への
窓口を開く文明ロードとして発展しました。
 この街道に呼応するように、明治4年12月5日、九州で最初に長崎郵便役所と16の郵便取
扱所が街道沿いに設置され、その後順次、九州全域に郵便局ネットワークが広がっていきま
した。
 物流と情報の伝達手段として役割を果たしてきた長崎街道を振り返り、歴史文化を生かし
地域の活性化が更に推進されるよう願って、このポストを設置したものです。
(現地説明文より)
(所在:小倉北区室町2丁目5番、八幡西区木屋瀬手前の真名子橋の橋詰にもあります。)
安国寺

 曹洞宗安国寺は、足利尊氏・直義兄弟の発願で全国に建てられた寺の一つで、豊前安国寺
と伝えられています。
 寺内には最上藩騒動、伊達藩騒動で小倉に配流され亡くなった最上光直、伊達宗興の墓な
どがあります。
 松尾芭蕉関連のゆかりのものが多数あるようです。。
(北九州教育委員会の現地説明文より)
(所在:小倉北区竪町1丁目2番)
到津口門跡

 江戸時代には九州諸藩の藩主、長崎奉行、外国人や、江戸に連れていく像までが往来した
という長崎街道の出入り口である。門の外は左右に土手と堀が連なり、内側には三角形の約
千坪の「勢溜」といわれる広場があった。門司口と共に昼夜開門し、番所には20人が勤め
いたというす。
 「勢溜」の周辺には万徳寺、西応寺のほか、明治以降廃寺になった本立寺、明照寺、見徳
寺と寺が立ち並んでいた。外敵の侵入の際に砦にするためであったという。
幕末の絵図には「到津口」と記されているが、明治の地図では「筑前口」となっている。
小倉北区役所   (現地説明文)
(所在:小倉北区田町19番)
水掛け地蔵と長崎街道碑

 この街道は、昔からあった官道で、筑前街道又は、長崎街道と称されていました。
藩制時代は、長崎と京都、江戸をつなぐ唯一の西海道の交通の要所であって、諸国大
名の参勤交代の折は、この地に駒を止め、しばしば憩いの場所としていました。
遠く万葉歌人や、大宮人も通り、藩制時代には、幾多の文人墨客たちが、その旅日誌
に、この辺の風景を画いています。二千年の歴史は、幾十万人の旅人がこの道を通行
し、また憩いの場所としたことでしょう。
また、天平十二年、板櫃川の戦いのとき、朝廷軍の勝利となった歴史の地でもありま
す。
最近、都市開発が進み、祖先の残した文化的遺跡が失われようとしています時、この
碑を泉台老人クラブで、昭和四十一年一月建立したのであります。
   (泉台校区社会福祉協議会碑文再建之)
(所在:小倉北区清水5丁目10番)
九州鉄道茶屋町橋梁

 この橋梁は明治二十四年4月に開通した九州鉄道大蔵線の施設である。(中略)
明治三十五年12月、戸畑線(現鹿児島本線)の開通、ついで同四十年の
九州鉄道の国有化、翌四十一年戸畑線の本線昇格と状況は変化し、一支線
となった大蔵線は、四十四年9月廃線となった。(以下略)北九州教育委員会
(現地説明文より)
(所在:八幡東区茶屋町4番、槻田川)
「荒生田(あろうだ)の一里塚跡碑」

 一里塚は、街道の両側に一里(約四キロメートル)の目印として小高く土を盛っ
た所です。一里塚には榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人
に知らせる目印や、馬や駕篭の料金を支払うときの目安になりました。
戦国時代の末期にはすでに存在していましたが、本格的に整備されたのは1604年
(慶長九)に江戸幕府初代将軍徳川家康が命じてからです。
 小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡東区内には、前田と荒
生田に一里塚がありました。「正保年間豊前六郡図」に「一里山より境目まで五十間」
との書き入れがあることから、筑前との国境(くにざかい)から約90メートル先に
あったと思われます。(正保年間:1644〜1648年)
(荒生田の説明文)

(所在:八幡東区高見2丁目三条橋の東方、大蔵川の岸辺)
(参考)「三条の国境石」

(所在:八幡東区高見2丁目2番、市長公舎隣)
大蔵の「街道碑」(木杭)

「長崎街道跡」 小倉ー大蔵
と書かれた白い木杭です。




(所在:八幡東区大蔵1丁目16番 角)
九州鉄道「大蔵駅跡」案内

九州鉄道の「大蔵駅」があった所です。





(所在:八幡東区大蔵2丁目1番 大蔵市民センター前)
「豊前、筑前の国境石」

 八幡東区図書館前の、豊前国境石と筑前国境石。

(所在:八幡東区尾倉2丁目6番、八幡図書館敷地内)
「前田の一里塚跡碑」

 遠賀郡往還古図に「前田川の西に小川ありて、その土橋を渡りたる所に第一の塚あり」
とあります。
 一里塚は、街道の両側に一里ごとに設けられた塚で、旅人には距離の目安となり、また、
馬や駕篭の賃銭を支払う時の目安にもなりました。塚には杉・榎などを植えていました
が、ここ前田の塚には松が植えられていました。一里は三十六町、一町は六十間、一間
は六尺、六尺は曲尺で1.8米です。
 五街道の一里塚の起点は江戸日本橋ですが、長崎街道の起点は、「豊前大里(門司区
大里)に始まり、赤坂、長浜(一里塚)を経て、金田、原町、荒生田(付近一里塚)か
ら筑前黒崎へと至る」と企救郡誌にあります。
(前田の説明文)

(所在:八幡東区前田3丁目6番「前田三丁目南公園」内)
「海蔵庵」と「黒崎宿東構口跡碑」

 海蔵庵は、昔より火災守護、安産、商売繁盛のお寺として信仰を集めた由。
本尊は阿弥陀如来で両脇に六観音をお祭りしています。境内には毘沙門天像、
阿弥陀如来像、不動明王、六地蔵、大師像などが祭られています。
8月17日は観音様の祭日だそうです。
 東構口(ひがしかまえぐち)は番所のことで、天和元年(1615)黒崎城
を廃し、城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けて行旅の人を
監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある構口で
検査を受けた由。東の構口田町には四人、西の構口熊手には三人の役人が
昼夜交替でつめ行旅の監視をしていた由
(現地説明文より)

(所在:八幡西区田町2丁目1番)
「桜屋跡碑」

黒崎宿の旅籠屋です。文化5年(1808)頃の創業で九州諸藩の御用達や定宿
を勤めた由。
 古くは薩摩屋と称しており、西郷隆盛や坂本龍馬、三条実美らの五卿が宿泊した由。
櫻屋の「離れ座敷」は、明治維新の歴史を伝える貴重な建物として解体され保存されて
いる由。

(所在:八幡西区藤田2丁目1番マンション敷地内)
「史跡 黒崎宿 人馬継所(じんばつぎしょ)跡碑」

人馬継所の跡です。人馬を常備し荷物や人を運ぶために置かれたもので、今の運送業?
ここで街道は直角に折れています。この折れた所に番所もあったそうです。





(所在:八幡西区藤田2丁目7番角)
「史跡 黒崎宿 代官所之跡」碑

代官所が置かれていました。






(所在:八幡西区藤田2丁目5番角)
「筑前六宿 黒崎宿」の案内図

 黒崎宿は筑前六宿の一つです。東構口、桜屋、人馬継所、代官所などの跡碑が建っています。

(所在:八幡西区藤田4丁目2番 角)
「興玉神」

読み方判りません。猿田彦命を祭っている由。
街道の守り神なんでしょうね、あちこちにあります。


(所在:八幡西区熊手2丁目1番角)
「史跡 筑前六宿街道 碑」

乱橋(みだれはし)側の街道碑です。この手前に西構口があった由。




(所在:八幡西区熊手3丁目4番角)
「曲里(まがり)の松並木」

黒崎宿を出るとすぐに有名な「曲がりの松並木」があります。
(所在:八幡西区岸之浦2丁目1番から幸神1丁目8番にかけての約700m)
「幸の神(さいのかみ)」

幸の神の祭神は猿田彦大神で、街道の守り神だそうです。
祠には沢山の草鞋(わらじ)が奉納されていました。
この祭神がこの付近の地名の幸神(さいのかみ)になっています。

(所在:八幡西区幸神1丁目12番)
「幸神(さいのかみ)の一里塚跡碑」

 一里塚は街道の両側に一里ごとの設けられた塚で、江戸時代の旅人には距離の目
安となりました。
塚には榎などを植えた所もありますが、ここの塚は松が植えてありました。一里は
三六町です。一町は六○間です。次の一里塚は、北は前田村、南は小嶺村にありま
した。五街道の一里塚は江戸日本橋を起点としていましたが、長崎街道の一里塚は
豊前大里に始まります。この塚の所で長崎街道開通以前の街道という古道が、尾倉
より平野・川頭・鳴水・檣山荘を経てここで合流していました。この道は黒崎宿の
御除道にもなりました。迂回路です。(檣は”ほばしら”と読みます。)
(幸神の説明文)

(所在:八幡西区幸神3丁目8番「済世第二幼稚園」南西角)
幸の神の「史跡 古街道碑」

旧街道が国道200号線に合流する直前の石碑です。

この先暫く国道200号線と重なっています。

(所在:八幡西区幸神3丁目9番)
「旧上津役出張所跡」碑

明治22年の町村制施行で、小峯、上上津役(かみこうじゃく)、下上津役(しもこうじゃく)、
市瀬(いちのせ)、引野(ひきの)、穴生(あのう)の6村が合併し遠賀郡上津役村となった。
村役場は最初、引野字割子川(わりこがわ)に置かれたが、明治26年に大字市瀬に鬱された。
その後、昭和12年、八幡市に編入に伴い、八幡市役所上津役出張所となった。
昭和54年に、大字下上津役に移転するまでの86年の永きに渡り、地区行政の中心としての
役割を果たした当地を記念して建てられた碑。
(碑文より)
(所在:八幡西区市瀬1丁目14番)
「蛭子(えびす)神社」

最初は「ひるこ」って変な名と思ってましたが、調べてみると「えびす」なんですね。
恵比須さまと呼ぶあの”えびっさん”なんですね。知りませんでした。
境内に「帆柱新四国 第65番札所 本尊 十一面観世音菩薩」の祠もありました。




(所在:八幡西区上の原1丁目8番角)
「涼天満宮」

 菅原道真公をお祀りしている「菅原神社」です。境内にあった松の下で長崎街道を
往来する旅人が休憩したので「涼み松」等と呼ばれ、神社も「涼天満宮」と呼ばれる
ようになった由。

投げた石が鳥居に載ると願いが叶うのか、数人の女性が何度も石を投げ上げていました。


(所在:八幡西区上の原1丁目12番)
「やから様」

 平家の落人の悲話に由来する祠の由。
落人狩から逃れる為、夜泣きをする子供を殺し、自身も自殺した平家の母子を憐れんで祀られた由。
”やから”とは”やんちゃ”とか”夜泣き”という意味のようです。
昔は、子供の夜泣き止みの願かけの参拝者が多かった由。




(所在:八幡西区上上津役3丁目 国道211号線沿)
「蛭子神社」

 ”えびっさん”です。







(所在:八幡西区町上津役西3丁目2番)
「小嶺(こみね)の一里塚跡碑」
 一里塚は街道の両側に一里ごとに設けられた塚で、江戸時代の旅人には距離の目
安となりました。塚には榎などを植えた所もありますが、ここの塚は両側ともに上
に松が植えてありました。ここの一里は三六町です。一町は六○間です。長崎街道
の北の次の一里塚は幸神にありました。南のそれは茶屋の原です。後者は途中のア
ケ坂、石坂といった急坂が考慮されているのか、距離は一里ありません。五街道の
一里塚は江戸日本橋を起点としていましたが、長崎街道の一里塚は豊前大里に始ま
ります。
(小嶺の説明文)

(所在:八幡西区小嶺1丁目3番国道211号線横)
「立場茶屋銀杏屋(たてばぢゃやいちょうや)」

立場茶屋銀杏屋は、江戸時代の長崎街道・黒崎宿と木屋瀬宿の間の休憩所です。
大名専用の休憩所だった由。庭に大きな銀杏の木があることからこう呼ばれるよ
うになった由。


(所在:八幡西区八幡西区石坂1丁目4番6)
「石坂」

 長崎街道・黒崎宿と木屋瀬宿の間の難所だった由。大名も駕篭を降りて歩いた
とのこと。

何で回り道せなんだかと不思議でなりません、、、、。
降り切った所に「興玉神」が祀ってあります。
降りてすぐに石坂橋があり、昔の欄干柱が展示されています。
またすぐ先に地蔵堂が2ヶ所ありました。
(所在:八幡西区八幡西区石坂1丁目と2丁目の間)
「茶屋の原(ちゃやのはら)の一里塚跡碑」

 一里塚は、街道の両側に一里(通常約四キロメートル)ごとに設けられた塚です。
戦国時代の末期にすでに存在していましたが、本格的に整備されたのは、慶長九年
(1604)二代将軍徳川秀忠のときからです。一里塚の上には榎、松などが植え
られ、江戸日本橋から全国への里程(道程)を知らせる目印となりました。
 小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡西区内には、幸神、小峰
、茶屋の原、六本松(旧木屋瀬村はずれ)にありました。小嶺と茶屋の原の間は距離
が一里に満たず、六合道(ろくごうみち)と呼ばれていました。これは、アケ坂、石
坂といった険しい坂道があったことを考慮したものと思われます。古老の話では、こ
この一里塚には、松と椎の木が植えられていたといわれています。
 この「一里塚跡」の石碑は、昭和五十七年に地元の郷土会によって建てられたもの
です。 北九州市教育委員会
(茶屋の原の説明文)

(所在:八幡西区茶屋の原2丁目5番)
「長崎街道 筑前六宿 木屋瀬宿」

 木屋瀬(こやのせ)は、江戸時代の脇街道であった長崎街道の筑前六宿(黒崎・木屋瀬・
飯塚・内野・山家(やまえ)・原田)の一つとして栄えた歴史をもつ宿場町です。
(現地の北九州市教育委員会説明文より抜粋)

今も当時の町構えを残した建物群が街道の両側に並んでいます。貴重な文化遺産です。
(所在:八幡西区茶屋の原2丁目5番)
「木屋瀬の西構口跡と追分道標」

 「従是(これより) 右赤間道 左飯塚道、元文(げんぶん)三年(1738)建之」
 右手遠賀川の土手を越え川原に下りると、一艘の渡し船が待っている。当時水深2m、
川幅91mの遠賀川を渡り、中ノ島を歩き、再び12mの犬鳴川を渡って植木の宿に上が
る。新延(にのぶ)から赤間に出る、これが赤間道(内宿通り)で、福岡への唐津街道
に通じる道である。
 左の道は勿論、九州一の幹線「長崎街道」で、飯塚の宿まで4里30丁。長崎奉行や、
肥前・肥後・筑後・薩摩 数十の大名の行列が上り下りし、多くの旅人が、にぎやかに
往き交った所。従って、木屋瀬の宿は追分(おいわけ)の宿であり、これは「追分の道
標」である。実物は、現在、郷土資料館内で展示されています。現地はレプリカです。
 (宿場木屋瀬まちづくりの会説明文より)

(所在:八幡西区木屋瀬宿西構口(かまえぐち)十字路)
「長崎街道の表示プレート」

歩道部分がが赤茶色にカラー舗装され、これらのプレートが
が埋め込まれています。

(所在:北九州市内の長崎街道のあちこち)


「北九州市内の一里塚」

一里塚は街道の両側に一里(約4km)の目印として小高く土を盛ったところです。
長崎街道にも一里塚が設置されており、北九州市内には、門司大里・長浜・荒生田
・前田・幸神・小嶺・茶屋の原にあり ました。
九州の一里塚は、門司大里が起点となっています。

ちなみに、
一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺、六尺は曲尺で1.8mです。
一里(3,888m)、一町(108m)、一間(1.8m)、一尺(0.3m)。
「大里の一里塚」

「大里宿 史跡 一里塚標石跡」・・九州諸街道全ての起点の一里塚石標の跡です。
大里宿は江戸への玄関口であり、長崎街道の始終着駅であった。藩政期街道要路には里程の目安
として一里塚標石を設けていた。
(現地 碑文)



(所在:北九州市門司区大里本町3丁目2番)
「長浜の一里塚」




「荒生田(あろうだ)の一里塚跡碑」

 一里塚は、街道の両側に一里(約四キロメートル)の目印として小高く土を盛っ
た所です。一里塚には榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人
に知らせる目印や、馬や駕篭の料金を支払うときの目安になりました。
戦国時代の末期にはすでに存在していましたが、本格的に整備されたのは1604年
(慶長九)に江戸幕府初代将軍徳川家康が命じてからです。
 小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡東区内には、前田と荒
生田に一里塚がありました。「正保年間豊前六郡図」に「一里山より境目まで五十間」
との書き入れがあることから、筑前との国境(くにざかい)から約90メートル先に
あったと思われます。(正保年間:1644〜1648年)
(荒生田の説明文)

(所在:八幡東区高見2丁目三条橋の東方、大蔵川の岸辺)
「前田の一里塚跡碑」

 遠賀郡往還古図に「前田川の西に小川ありて、その土橋を渡りたる所に第一の塚あり」
とあります。
 一里塚は、街道の両側に一里ごとに設けられた塚で、旅人には距離の目安となり、また、
馬や駕篭の賃銭を支払う時の目安にもなりました。塚には杉・榎などを植えていました
が、ここ前田の塚には松が植えられていました。一里は三十六町、一町は六十間、一間
は六尺、六尺は曲尺で1.8米です。
 五街道の一里塚の起点は江戸日本橋ですが、長崎街道の起点は、「豊前大里(門司区
大里)に始まり、赤坂、長浜(一里塚)を経て、金田、原町、荒生田(付近一里塚)か
ら筑前黒崎へと至る」と企救郡誌にあります。
(前田の説明文)

(所在:八幡東区前田3丁目6番「前田三丁目南公園」内)
「幸神(さいのかみ)の一里塚跡碑」

 一里塚は街道の両側に一里ごとの設けられた塚で、江戸時代の旅人には距離の目
安となりました。
塚には榎などを植えた所もありますが、ここの塚は松が植えてありました。一里は
三六町です。一町は六○間です。次の一里塚は、北は前田村、南は小嶺村にありま
した。五街道の一里塚は江戸日本橋を起点としていましたが、長崎街道の一里塚は
豊前大里に始まります。この塚の所で長崎街道開通以前の街道という古道が、尾倉
より平野・川頭・鳴水・檣山荘を経てここで合流していました。この道は黒崎宿の
御除道にもなりました。迂回路です。(檣は”ほばしら”と読みます。)
(幸神の説明文)

(所在:八幡西区幸神3丁目8番「済世第二幼稚園」南西角)
「小嶺(こみね)の一里塚跡碑」
 一里塚は街道の両側に一里ごとに設けられた塚で、江戸時代の旅人には距離の目
安となりました。塚には榎などを植えた所もありますが、ここの塚は両側ともに上
に松が植えてありました。ここの一里は三六町です。一町は六○間です。長崎街道
の北の次の一里塚は幸神にありました。南のそれは茶屋の原です。後者は途中のア
ケ坂、石坂といった急坂が考慮されているのか、距離は一里ありません。五街道の
一里塚は江戸日本橋を起点としていましたが、長崎街道の一里塚は豊前大里に始ま
ります。
(小嶺の説明文)

(所在:八幡西区小嶺1丁目3番国道211号線横)
「茶屋の原(ちゃやのはら)の一里塚跡碑」

 一里塚は、街道の両側に一里(通常約四キロメートル)ごとに設けられた塚です。
戦国時代の末期にすでに存在していましたが、本格的に整備されたのは、慶長九年
(1604)二代将軍徳川秀忠のときからです。一里塚の上には榎、松などが植え
られ、江戸日本橋から全国への里程(道程)を知らせる目印となりました。
 小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡西区内には、幸神、小峰
、茶屋の原、六本松(旧木屋瀬村はずれ)にありました。小嶺と茶屋の原の間は距離
が一里に満たず、六合道(ろくごうみち)と呼ばれていました。これは、アケ坂、石
坂といった険しい坂道があったことを考慮したものと思われます。古老の話では、こ
この一里塚には、松と椎の木が植えられていたといわれています。
 この「一里塚跡」の石碑は、昭和五十七年に地元の郷土会によって建てられたもの
です。 北九州市教育委員会
(茶屋の原の説明文)

(所在:八幡西区茶屋の原2丁目5番)


	
		取り合えず、忘れないように、
		小倉常磐橋から木屋瀬までの主な行程を整理してみました。

	 1 常磐橋
	  ・小倉の五街道(長崎街道、唐津街道、中津街道、秋月街道、門司往還)の起点。
	  ・伊能忠敬が九州測量を開始したその測量起点。(東勢溜に測量200年記念碑)
	    1級都市基準点 第2001号。
	  ・常磐橋の由来、小倉藩士屋敷絵図、シーボルトの常磐橋銅版画。(西勢溜)
	  ・明治23年頃の「広告塔」のモニュメント。(東勢溜)
	  ・長崎街道由来(西勢溜)
	  ・常磐橋之跡碑と石の橋脚(西勢溜)
	  ・西国内海名所一覧の常磐橋(西勢溜)
	 2 小倉県庁ノ跡碑
	 3 明治4年の長崎街道の長崎郵便役所と16の郵便取扱い所由来と当時のポスト
	 4 安国寺
	 5 到津口門跡
	 6 清水口門跡
	 7 善龍寺
	 8 法輪寺
	 9 水かけ地蔵尊
	10 大満寺塩買観音
	11 九州鉄道茶屋町橋梁
	12 荒生田の一里塚跡碑
	13 三条の国境石
	14 大蔵の長崎街道跡碑
	15 国境石2基(八幡東図書館構内)
	16 前田の一里塚跡碑
	17 海蔵庵と東構口跡
	18 黒崎城址
	19 櫻屋跡地碑
	20 黒崎宿人馬継所跡碑
	21 春日神社
	22 願かけ地蔵
	23 黒崎宿 代官所之跡碑
	24 黒崎宿案内、藤田町女性の会の♀狸像
	25 正覚寺
	26 黒崎宿案内(藤田銀天街)
	27 なかばし川橋跡
	28 熊手七福神
	29 輿玉神
	30 岡田宮
	31 西構口の六宿街道碑
	32 曲里の松並木
	33 曲里の街道案内
	    九州の主要街道
	     ・長崎街道、薩摩街道、唐津街道、日向街道、日田街道、豊後街道、中津街道、豊前道、出水筋、大口筋
	34 幸神地蔵堂
	35 幸の神
	36 幸神の一里塚跡碑
	37 古街道碑(幸神3丁目9番)
	38 京良城池
	39 上津役村初代村長芳賀浩太郎顕彰碑
	40 上津役村出張所(旧村役場)跡碑
	41 上津役小学校
	42 蛭子神社と地蔵堂
	43 涼天満宮
	44 やから様
	45 蛭子神社
	46 旧長崎街道案内(八児まちづくり協議会)
	47 西法寺
	48 地蔵尊
	49 小嶺の一里塚跡碑
	50 長崎街道案内
	51 立場茶屋銀杏屋
	52 各務弥三太夫一徳 墓案内
	53 石坂
	54 輿玉神
	55 石坂橋と旧欄干柱
	56 波切地蔵堂
	57 もうひとつの大きな地蔵堂
	58 香徳寺
	59 大日堂
	60 茶屋の原の一里塚跡碑
	61 明治4年の長崎街道の長崎郵便役所と16の郵便取扱い所由来と当時のポスト
	62 木屋瀬宿東構口跡
	53 木屋瀬宿 案内
	54 郷土資料館
	55 船庄屋跡
	56 村庄屋跡
	57 木屋瀬宿西構口跡
	58 追分道標
	59 輿玉神社
	                               以上 

ちなみに、各点間の距離を測ってみました。(ゼンリン利用)

	門司大里(一里塚:場所?)
	↓
	長浜(一里塚:場所?)     7,021m
	↓
	常磐橋
	↓     6,279m
	荒生田(一里塚)
	↓     3,873m
	前田(一里塚)
	↓     3,814m
	幸神(一里塚)
	↓     4,307m
	小嶺(一里塚)
	↓     3,067m
	茶屋の原(一里塚)
	↓     3,217m
	木屋瀬追分
	↓
	木屋瀬六本松(一里塚:場所?)

    門司大里から荒生田の間は2里(約7.6km)のはずなのに、距離が有り過ぎます。
       何故でしょう??
「古官道(太宰府官道)」

律令国家時代都と太宰府を結ぶ国道として整備されたそうです。門司から太宰府まで
9つの駅が設けられていたようですが、その後長崎街道が整備されて廃れたようです。

八幡西区東川頭町2番(花尾中学校の裏)辺りに道幅1m〜2m程の石畳の坂道が
約100m程残っています。

真ん中の石畳の道が古官道です。
今は道幅1m〜2m程ですが昔はもっと広かった由。
石碑が見えてます。
古官道の石碑です。
坂の途中にも、同じ石碑が1本あります。

「史跡 古官道
 昭和四十六年三月建之
 北九州市教育委員会」


菅原道真、山上憶良、大伴旅人などの歌人も通ったのでしょうね。
八幡東区側




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